HISTORY
- 1890
1890年8月24日、"Duke Halapu"と"Julia Paoa Kahanamoku"との間に誕生。9人兄弟の長男。父の名前を受け継ぎ"DUKE"と名付けられるが、家族にはミドルネームの"Paoa"の名で呼ばれていた。
- 1893
カハナモク家はワイキキのパオア・オハナ・コンパウンドへ移り住む。
- 1904-1910
少年時代はカメハメハ・スクールへ通う。
- 1908
アウトリガー・カヌークラブを辞め、友人2人と共に"Hui Nalu"(クラブ・オブ・ザ・ウェーブ)を立ち上げる。
- 1911
ホノルル・ハーバーで行われたハワイ初の水泳大会"AAU SWIM MEET"の自由形部門において、3つの世界記録を樹立する。
- 1912
ストックホルム・オリンピック大会において、競泳100m自由形で金メダル、200mリレーにおいても銀メダルを獲得する。
- 1914-1915
オーストラリアン・ナショナル・スイミングチャンピオンシップで優勝し、オーストラリアで水泳を人気スポーツにする。
- 1913-1929
カリフォルニアで水泳とサーフィンを人気のスポーツにしたことに貢献する。
- 1917
ワイキキにて、1-1/8マイルもの高さのモンスターウェーブに乗る。当時、木で作られたサーフボードにはフィンもリーシュコードも付いていなかった。
- 1912-1922
数々の水泳レースに優勝し、数えきれないほどのメダルやトロフィーを獲得。世界チャンピオンとして君臨する。
- 1918
第一次世界大戦中、自由公債やUSミリタリーの為の資金獲得に協力し、アメリカ、カナダの30都市にて水泳のエキシビションを行う。水泳の人気を上げることにも貢献。
- 1920
アントワープ・オリンピックにて、100m自由形と800mリレーにおいて金メダルを獲得。8年前の自らの記録を塗り替えて、世界新記録を樹立した。
- 1924
パリ・オリンピックの100m自由形で銀メダルを獲得。この際、金メダルに輝いたのは後に映画『ターザン』で主演をつとめるジョニー・ワイズミュラー。デュークの弟のサムも銅メダルを獲得した。
- 1922-1929
ロサンゼルス在住中は、ロサンゼルス・アスレチック・クラブのメンバーとして活躍。デュークの貢献により、カリフォルニアはウォータースポーツのメッカとなる。また、当時30本以上もの映画に出演。
- 1925
カリフォルニアのデルマーにて、溺れていた8人の釣り人をサーフボードで救助する。
- 1930-39
トム・ブレイクと一緒に、様々なサーフボードを生み出す。
- 1932
デュークにとって最後のオリンピックとなったロサンゼルス・オリンピックで銅メタルを獲得。20年におよぶ競技年数は当時の最長記録であった。
- 1934-1960
ホノルルの保安官に12年間連続で任命される。
- 1940
8月2日、"Nadine Alexander"と結婚。
- 1960
ハワイがアメリカ50番目の州になると、アロハ大使に任命される。
- 1962
デューク・カハナモクの名を冠したレストランとナイトクラブがワイキキにオープン。
- 1964
東京オリンピックにて、公式な代表を務める。
- 1965
デューク・カハナモク・サーフチームが発足。ハンティントンビーチ・サーフコンテストに参加。国際スイミング栄誉殿堂入り。国際サーフィン栄誉殿堂にも入り、両伝統入りした人物はデュークが初めて。
- 1965
サーフィンコンテスト"Duke Kahanamoku Invitational Surfing Classic"がオアフ島ノースショアで始まり、その模様が全米にテレビ放送される。
- 1968
1月22日、ホノルルで死去。伝統的な葬儀がビーチにて行われ、遺灰が海に散布された。
- 1984
USオリンピック栄誉殿堂入り。
- 1986
ハワイのアスリートを支援するためのアウトリガー・デューク・カハナモク財団が設立される。
- 1990
生誕100周年を記念したブロンズ像がワイキキビーチに作られる。
- 1994
SUFERマガジンにより"Surfer of the Century"に選ばれる。
- 2001
デュークの功績を讃えるため、毎年ハワイで行われているイベント"Duke's Oceanfest"が始まる。
- 2002
アメリカ合衆国郵政公社がデューク・カハナモク記念切手を発行。その功績は没後数十年を経ても色褪せることなく讃えられている。